大潟村の生い立ち

かつて日本で2番目の面積を誇った八郎湖

大潟村について大潟村は、20年の歳月と総事業費852億円を投じた世紀の大事業により誕生しました。東西12km、南北27km、周囲82km、総面積22,024haで水位も浅く1~5mの海跡湖であり干拓しやすい条件をもっていました。
八郎潟の開発計画は古くから考案されており、江戸時代後期の安政年間に払戸村の渡部斧松の「八郎潟疎水案」にはじまり、いくつもの開発計画が立案されましたが、いずれも実施されるに至りませんでした。
しかし、1952(昭和27)年 7月、秋田市に農水省八郎潟干拓調査事務所が設置され、1956(昭和31)年に農水省は NEDECO(オランダ対外技術援助機関)の技術協力を得て八郎潟干拓事業計画を完成、翌年 5月には秋田市に八郎潟干拓事務所を設置し、干拓事業に着工しました。

新生の大地「大潟村」

大潟村について基幹工事の後1965(昭和40)年 8月には八郎潟新農村建設事業団が設置され、翌年 5月干陸し新村建設事業が進められました。
1968(昭和43)年には第 1次入植者による耕作が開始され、その後第 5次までと県単 1次の 9戸を含め合計589戸の農家が入植し、営農をはじめています。
村の誕生は1964(昭和39)年10月 1日、大規模な公有水面の埋立に伴う村の設置にかかる地方自治法等の 1976(昭和51)年 7月28日、自治省告示で指定した設置選挙は昭和51年 9月 5日に行われ、「村長村議会議員(定員16名)」が選出されました。
これを契機に、教育委員会・選挙管理委員会・農業委員会・監査委員会の各種行政委員会が設置されました。
こうして大潟村は一般市町村と同じ行政体制になり、自立への道を歩みはじめました。

大潟村について

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